ワスレナグサ 極北の生
今日は、4月3日、「いんげん豆の日」だ。
いんげん豆は、いんげん豆を中国から日本へ伝えたとされる隠元禅師の命日にちなみ、制定されました。隠元禅師はいんげん豆を精進料理の材料として普及させたと言われます。
今日は、仕事で遅くなった。
だいぶ古いけど、『讀賣新聞』2006年4月23日(日)の「人物語」は、「ワスレナグサ 極北の生」だった。
写真家・星野道夫さんの死 妻は受け入れた
事故から10年「夫のことを伝えたい」
「クマを許すことができたのかい」
星野直子さん(36)は、米アラスカ州の友人から、そう尋ねられたことがある。
極北の自然を題材に多くの写真と文章を残した夫、星野道夫さんは10年前、ロシア・カムチャッカ半島でヒグマに襲われ、43歳で死亡した。
道夫さんは事故の3か月前、山梨県の八ヶ岳山麓を訪ねている。この時の講演録が残る。
<テントの入り口を開けたらクマの顔がひょっこり、なんてことも。でも、そういう恐怖心を持てるということは、すごくぜいたくなことだと思います>
木々の黄葉が映る湖面に、道夫さんと乗った軽飛行機は滑り降りた。1993年秋、アラスカ南西部のナクネク湖。岸辺に立つと、10頭ほどのヒグマが昼寝をしていた。「すごいとこに来ちゃった」。クマと間近で向き合うのは初めてだった。
その2年前、一時帰国していた道夫さんと出会った。78年からアラスカの原野で暮らし、国際的な評価を得ていた写真家は、17歳の年齢差を感じさせない人懐っこさで、撮影中の出来事を語りかけてくる。
思い切って、自分のことも打ち明けた。
短大を出て書店に就職したものの、営業の仕事になじめずにいること。好きな花にかわっていたいという夢・・・。「本当に花が好きなら、大丈夫」という言葉に、背中を押された。
出会った翌年に退職。フラワーアレンジメントを学び始めてすぐに、アラスカ中部の都市フェアバンクスの郊外にある丸太造りの自宅に誘われた。敷地に咲き乱れる花に迎えられ、「好きなだけ摘んでいいよ」と言われた。
結婚したのは93年5月。二人の部屋を花で飾り、撮影旅行について回る日々が始まった。
軽飛行機で舞い降りたナクネク湖畔。テントで寝ていると、ヒグマが枯れ葉を踏みしめる音が聞こえた。地響きを立ててムース(ヘラジカ)を襲うのも見た。
同じ秋。北極圏のコバック川まで足を延ばし、猟師が倒したカリブー(北米のトナカイ)の心臓をたき火で煮込んで食べた時は、指先まで温まった気がした。
殺し殺される生命の循環を、そして、死と隣り合わせの毎日を全力で生きることの意味を、夫は何度も語り聞かせてくれた。
94年11月、長男の翔馬君が生まれた。自宅のベランダで息子と寄り添い、秋の空を飛び交う鳥を眺めていた道夫さんの夢は、「一日も早く、この子を撮影に連れていく」ことだった。
深夜に自宅の電話が鳴ったのは96年8月。テレビクルーを同伴した撮影旅行中、テントの中で襲われたという。その後は、テレビにクマの姿が映るだけで目を背けたくなった。
帰国し、膨大な遺作を黙々と整理するうちに、ふと気づいた。結婚した年を境に、花を被写体にした撮影旅行が急に増えている。
その中に、忘れられない旅があった。ワスレナグサを二人で探したアリューシャン列島。激しい雨の中で岩陰にしがみつくように小さな青い花が群れていた。<一瞬の夏、限られた持ち時間の中で一生懸命開花しようとする極北の花々は、どれだって美しい>。そんな文章も残されていた。
フィルムを見ていくうちに、ヒグマに対する夫の思いも改めて感じ取ることができた。自然の中で精いっぱい生きている存在を、「許せないはずがない」-直子さんは今、はっきりとそう思える。
気持ちが和らいでいく中で、「夫のことを多くの人に知ってもらえるよう、できる限りのことをしたい」と考えるようにもなった。
その願いが、もうすぐ形になる。来月12日、「八ヶ岳自然ふれあいセンター」。亡くなる直前の講演会と同じ日付、同じ場所で、夫の友人が弾くピアノの旋律に乗せ、ナクネク湖での思い出などを語るのだ。
父の記憶がない翔馬君は小学6年。「夫が残したものを、この子にも伝えられたら」と直子さんは思う。
この春、3人で暮らしたフェアバンクスへ一緒に飛んだ。長く空けた家に入ると、ムースの親子が庭に現われた。息子は、幼い日に父とベランダでそうしたように、その姿をじっと見つめていた。
(田中史生)
「星野道夫公式サイト」
http://www.michio-hoshino.com/
本日のカウント
本日の歩数:5,146
(本日のしっかり歩数:0歩)
本日の割箸使用量:0本
本日の餃子消費量:0個
(水)○
| 固定リンク
コメント